科学技術イノベーション創出と大学教育改革のための緊急アピール
~大学ファンド等による資金投入を研究力強化につなげるための提言~

2022年5月25日に、「国際卓越研究大学の研究及び研究成果の活用のための体制の強化に関する法律」が公布されました。同法に基づき、国際卓越研究大学として認定される数校の大学に対し、2024年度から、10兆円規模の大学ファンドの運用益による助成を開始するとされています。また、同ファンドの運用益は、博士課程学生への支援にも充てられるとされています。さらに、地域の中核大学や特色ある研究大学には、別途の支援策が総合振興パッケージとして講じられることとされています。

私たち有志一同は、日本の科学研究の低迷に危機感を共有し、大学の研究力の強化及びイノベーションの創出という目的のために巨額の資金を投じようとする政治・行政の意志を歓迎するものです。その上で、せっかくの巨額の投資が所期の成果を上げ、意図せぬ弊害が現場に生じないようにするためには、大学が研究機関であると同時に教育機関でもあること、並びに、明日の科学研究を育てるのは今日の科学教育であることを踏まえ、最先端の科学研究の発展を支える足腰とも言うべき大学教育・大学院教育の構造問題を直視し、その克服に相応の資金を投じることが不可欠であると考えます。また、日本全体の研究力強化にとっては、国際卓越研究大学に限らない層の厚みと人材の流動性が必要であることから、大学よりも人材に着目した資金投入、人への投資が有効であると考えます。

つきましては、科学技術イノベーション創出と大学教育改革を一体的に推進するため、政府、関係機関、経済界、大学関係者等に対し、下記の提言への特段の配慮を要望します。

【要 旨】

① 日本の研究力強化のためには、研究力を支える足腰とも言うべき大学教育・大学院教育が抱える根本問題を直視し、少数の大学よりも全国の人材育成を支援する人への投資が不可欠。(本文全体)
② 研究室が学部生・修士生のマンパワー頼みでは、博士課程学生とポスドクを研究室の主戦力とする海外の大学には太刀打ちできない。博士課程学生の飛躍的増加が必要。(本文1(1)(2))
③ そのため、博士のキャリア不安を取り除きながら博士課程学生を増やすことのできる制度として、採用後の社員を大学院へ派遣する制度を公費で創設することを提言。(本文2(1))
④ 我が国の研究力強化のためには、国際卓越研究大学よりも博士課程学生・若手教員等の人材に厚く資金配分すべきことを提言。さもないと、大学間ヒエラルキーが固定化し、人材の流動性と自由な競争的環境が阻害され、日本の研究力の一層の低下につながる恐れを指摘。(本文1(4)、2(2))
⑤ 学部生・修士生を囲い込む徒弟制的な研究室教育(卒業研究や論文指導)に依存、コースワーク(授業科目の学修)が不十分。研究力の基礎を培うコースワーク強化を提言。(本文1(3)、2(3))
⑥ 学修成果のエビデンス(科学的根拠)に基づく授業変革により、コースワークの質を向上させるため、学問分野ごとの教育専門家を育成・配置することを提言。(本文2(4))
⑦ 研究成果へのプレッシャーが教員から学生に及ぶいわゆるブラック研究室を防止するため、無給の労働力ではなく教育を受ける権利の主体としての学生の保護の考え方を提言。(本文2(3))
⑧ 国際卓越研究大学は、事業成長よりも研究成果の創出を優先すべきことを提言。(本文2(5))

【本 文】

1.研究力強化とその基盤となる人材育成のために必要な改革

次に述べる通り、大学の研究力強化もその基盤となる教育改革も大きな壁に直面しており、この現実を直視して克服することなくしては、巨額の資金投入が所期の成果をもたらすことは困難です。

(1)克服すべき現状:研究は学部生・修士生のマンパワー頼み、教育は研究室教育に依存

日本の大学の研究室、特に理系学部の研究室の多くは、学士課程の4年生から研究室に配属されます。修士課程(博士前期課程を含む)の学生と共に、指導教員をリーダーとする研究チームにインターンのように参画し、実践的に学びながら、卒業研究を行う、いわゆる研究室教育を経験します。博士課程の学生が少ないことから、実際に手を動かして研究データを生み出すマンパワー(主戦力)が修士課程の学生及び学士課程の4年生となっている実態が広く見られます。

一方、海外の研究大学では、研究室の主戦力は博士課程学生とポスドク(博士研究員)となっています。このような彼我の格差に鑑みれば、日本の科学研究の国際的地位の低下が進むのは、ある意味当然ではないでしょうか。日本型研究室モデルで世界に太刀打ちすることは困難です。

(2)博士課程学生の飛躍的増加により、研究力を抜本的に強化すること

世界標準に合わせた研究室の高度化が不可欠です。このためには、博士課程入学者数の減少とその背景にある博士の就職難という日本特有の問題を直視する必要があります。企業等へのキャリアパスの多様化・拡大も、大学院重点化以来30年に及ぶ掛け声にもかかわらず、学士・修士を主対象とする新卒採用の慣行が根強いこともあって、あまり進んでいません。博士課程学生は現在と未来の研究の担い手ですから、我が国の研究力の基盤が揺らいでいることは明らかです。

博士人材のキャリア不安という問題の本質を直視した上で博士課程学生の飛躍的増加を図る具体策が必須であり、下記2(1)(2)で提言します。

(3)コースワークの強化により、大学教育改革を実質化すること

日本の研究室教育には、教員の主導する研究テーマの一部に参画・分担することを通じ、研究の進め方、実験のスキル、科学的思考法等を実地で学ぶという強みがあるのは事実です。

しかし、卒業研究や論文指導に過度に依存する徒弟制的な教育の在り方が疑問視され、授業科目の学修(コースワーク)が実質化していない、つまり、単位は取得していても学修成果が身に付いていない、という問題点が指摘されてきました。勉強しない大学生と揶揄されるように不十分なコースワークを研究室教育で帳尻合わせしてきたのですが、実際には帳尻は合っていません。

また、研究テーマの決定を含む研究者に必要な自律性・主体性が育たない、研究の視野・発想を狭めているとの批判もあります。卒業研究は学生の囲い込みにほかならず、研究室間・大学間での人材の流動性を阻害する傾向にあります。そのまま博士課程に進学させても、幅広い専門性や柔軟な思考が育たず、イノベーション人材を生み出しにくい、という指摘もあります。

博士課程学生とポスドクを主戦力とする世界標準の研究室への高度化と歩調を合わせ、コースワークの強化による大学教育の再構築が必要です。そのためには、卒業研究の見直しを含むカリキュラム改革、並びに、学修成果のエビデンス(科学的根拠)に基づく授業変革が必要です。

下記2(3)(4)で具体策を提言します。

(4)人材の流動性と自由で開かれた競争的環境により、我が国全体の研究活動を活性化すること

文部科学省の科学技術・学術政策研究所は、2022年2月18日開催のセミナーにおいて、国際比較データに基づき、「ドイツや英国は、日本と比べて上位に続く大学の層が厚く、そこには特定の分野で強みを持つ大学が存在」すること、「日本にも論文数規模が中小の大学の中に特定の分野で世界と競える強みを持つ大学が多数存在」することを指摘した上で、「これらの大学の強みを伸ばす、言い換えれば各大学の個性を伸ばすことで、結果的に日本全体の研究の多様性と上位に続く中堅大学の層の厚みが形成されるような施策の展開が必要ではないか」と問題提起しています。また、日本の研究は、新たな芽となる可能性のある小規模領域の研究が少なく、継続的で大規模な研究領域に偏る傾向があることも指摘しています(出典:次のWeb掲載資料)。

https://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/01_review20220218.pdf

このようなエビデンスに基づく政策立案が不可欠です。国際卓越研究大学だけ突出した財政基盤を持つことになれば、ヒエラルキーの固定化は避けられず、優秀な研究者の集中が進み、中堅大学等へと新天地を探す意欲は削がれ、国の方針として掲げられてきた人材の流動性と競争的環境が阻害される可能性が高いと考えられます。これでは、中堅大学の層の厚みは失われ、研究者にとってもキャリアパスの硬直化を招き、我が国全体の研究システムから自由・競争・多様性と活力が失われ、研究力の低下につながりかねません。研究領域についても、寄らば大樹の陰の傾向に拍車がかかり、研究の多様性は益々減じ、イノベーション創出への悪影響が危惧されます。

こうした観点からも、大学よりも人材への投資に重点を置く下記2(1)(2)を提言します。

2.具体的方策の提言

上記1で述べた改革の方向に基づき、以下では、研究の主戦力となる博士課程学生の飛躍的増加、人材育成の基盤となる大学教育の実質化等のための具体的方策を提言します。

(1)採用後の社員を大学院へ派遣する制度により、博士課程学生数を飛躍的に増やすこと

博士課程在籍中の経済支援は大切ですが、それだけでは博士課程学生数の減少問題は解決しません。問題の本質は、博士課程への進学が定職に就けるかどうか分からないリスクの高い進路として意識されており、この意識は現実に裏付けられていることにあるからです。

この状況の打開には、発想の転換が必要です。博士の学位取得後に就職ではなく、就職後に博士課程で研究することを当たり前にするのです。現状では、多くの企業の理系人材の新規採用は、修士・学士を主たる対象としており、これが急速に変化することは期待し難いので、採用した若手社員を博士課程に派遣してもらうことが現実的方策ではないでしょうか。これは、博士課程学生にとってのキャリア不安を取り除くという明確なメリットがある上、企業にとっても派遣するメリットのある大学院と社員を選ぶことができます。昨今、職務の専門性を重視するジョブ型雇用が謳われつつありますので、その一環として博士人材の活用を促すことにもつながります。

とはいえ、企業にとっては、フルタイムで働いてもらうべき社員が仕事以外の研究・学修に従事することになりますので、そのコスト負担が大きな課題となります。そこで、国が給与・学費等を負担することが有効な施策となります。なお、参考になる制度として、欧州における産学官連携による博士課程であるIndustrial PhD制度(国の補助を得つつ企業が博士課程学生を雇用し、大学側と企業側の双方が連携して研究指導。)があります。

国が相当規模の財政投入を行えば、博士課程学生の数を飛躍的に増やすことも夢ではないと期待できます。ちなみに、2020年度の博士課程入学者数は約1万5千人ですが、仮に企業派遣の学生1人当たり1千万円の財政負担(給与、学費、研究費、事業経費等)を行うとして試算すると、1千億円で1万人の博士課程学生の増加が可能となります。報道によれば5校から7校程度の国際卓越研究大学に数百億円ずつ助成する方向で検討されている由ですので、大学ファンドの運用益等の使途として博士課程学生の増加に重点を置くならば、非現実的な目標ではありません。

(2)国際卓越研究大学よりも博士課程学生・若手教員等の人材に厚く資金配分すること

上記(1)の提案は、言い換えれば、大学ファンド等による資金投入は、数校の国際卓越研究大学への助成よりも、全国に散らばる有為な人材の育成すなわち人への投資にこそ、厚く配分すべきではないかということです。その方が日本全体の研究力強化にとって有効と考えるからです。

博士課程学生の支援については、既に政府の方針に含まれていますが、上記(1)で提案した施策を含め、これを大学ファンドの運用益の最大の使途にしてしかるべきと考えます。博士課程への進学者を増やすには、上記1で述べたように企業等へのキャリアパス拡大が不可欠ですが、加えて大学の安定的なポストの拡充が必要です。法人化後の国立大学は、約20年にわたって安定的財源としての運営費交付金が削減され続けてきたため、いわゆるテニュア教員(任期の付かない常勤の教員、すなわち正規雇用の教員)の定数を減らし続ける一方、競争的資金等で若手研究者を任期付きで雇用してきたことが、博士課程学生やポスドクにとって研究者としてのキャリア展望を描きにくくし、ひいては日本の科学研究の失速の一因となっています。

こうした課題を直視するなら、新たな資金を優先的に博士課程学生の支援及び安定的な若手教員ポスト増に充て、残額を数校の国際卓越研究大学への助成に配分することが適当と考えます。

(3)学生は無給の労働力ではないことを再確認し、コースワーク強化で大学教育を再構築すること

日本の大学の研究室の在り方については、授業料を払って学んでいるはずの学生が無給の労働力扱いされかねない、といった問題が従来から指摘されてきました。近年、一部では研究成果へのプレッシャーが教員から学生に及び、長時間の拘束を強いる、結果(望むデータ)を出すよう追い詰める等の問題も見られ、「ブラック研究室」といった言葉も学生等の間で囁かれています。

国の科学技術イノベーション政策は、国際卓越研究大学から他大学にもイノベーション創出競争が広がることを企図しているものと思われますが、研究室の在り方が現状のままでは、教員から学生に及ぶプレッシャーが更に強まることが懸念されます。これは、学生の人権問題であると同時に、大学の教育機能ひいては研究力の基盤を崩壊させかねない由々しき問題です。

学生は無給の労働力ではなく、教育を受ける権利の主体であることを再確認する形で、学生の保護及び権利の考え方を明らかにするとともに、体系的コースワークと主体的学修を実質化する大学教育を再構築することが必要です。これが科学技術イノベーション創出の基盤ともなります。

修士課程進学を前提としない学生は3年生から4年生にかけて就職活動に時間と労力を取られるほか、卒業研究等のために3年生までにコースワークの大半を終わらせる慣行も根強く、学士課程カリキュラムの実態は窮屈で、授業外学修時間を含む単位の実質化や期待される学修成果の確保は困難な現実があります。コースワークの強化により大学教育を再構築するためには、卒業研究の教育的意義の再定義を含むカリキュラム改革が避けて通れません。その際、卒業研究が学生の囲い込みとなって人材の流動性を阻害する問題も、同時に解決する観点が必要です。

(4)コースワークの質向上のため、学問分野ごとの教育専門家を育成・配置すること

日本では未だ殆ど知られていませんが、海外では、北米を中心に、各学問の教育において学修成果向上に効果的な教授法のエビデンスを提供する実践的・実証的研究である「DBER」(ディーバーと読む。discipline-based education researchの略称)が急速に発展しています。STEM(Science, Technology, Engineering and Mathematicsの略称)と呼ばれる科学技術諸領域、すなわち理系の各学問分野において、DBERとその研究成果に基づく学士課程教育の改善・改革が盛んになってきています。DBERの知見によれば、知識理解と応用力習得を促す教育方法は、通常、予習を前提として授業時間中は当該分野の専門家のような思考を個人・ペアやグループで実践させ、本物の専門家たる教員等が即座のフィードバックを行うものです。専ら教員が話すのを学生は受け身で聴く伝統的講義と比べ、高い学修成果をもたらすとの知見が蓄積されています。

DBERを研究し教育実践に活かす人材については、近年、英語圏先進諸国を中心に注目すべき動向が出てきています。例えば、米国の大学では、2000年以降、科学と教育の専門性を兼ね備えた教員を採用するポストが急増しています。また、英国・豪州・カナダでは、正規雇用(無期かつ常勤)の教員のうち、教育に専念する教員が実数・比率ともに増大してきています。

我が国においても、学問分野に根ざした教育方法の専門家としてのDBER人材の育成・配置は、コースワークの質向上及び教員の教育力強化に有効な方策となり得ると考えられます。最先端の研究を期待される教員の多くが同時に学士課程の責任も負う現状では、研究・教育とも十分な成果を上げることは期待し難いことから、学問分野の研究を担う教員は大学院の責任を負い、DBERを研究する教員が学士課程の責任を負うとともに他教員の授業改善を支援する、そうした役割分担も検討に値します。人への投資の一環として、DBER教員の育成・配置に資金を投入し、大学教育の質を向上させることが、科学技術イノベーション創出の基盤強化につながります。

(5)国際卓越研究大学は、事業規模の成長よりも、卓越した研究成果の創出を優先すること

国際卓越研究大学は、年3%程度の事業規模の成長と国際的に卓越した研究成果の創出を同時に求められることになりますが、これら2つの目標を並べて設定することは、論理的に考えて理解が困難な面があります。経済的リターンを上げるという方向と、注目度の高い学術論文を量産するという方向は、どう考えても同じ方向とは思えません。

我が国の科学研究の失速及び不確実性を伴うイノベーションの本質に鑑み、事業規模の成長よりも、卓越した研究成果の創出を優先すべきではないでしょうか。また、上記(3)で述べたように、無給の労働力ではなく教育を受ける権利の主体である学生を競争の弊害から守る意味でも、教育機関としての大学の本質に立ち返って、事業成長を過度に強調すべきでないと考えます。

2022年8月22日
有志一同

顧 問 小笠原 正明 (北海道大学名誉教授)
世話人 大森 不二雄 (東北大学 高度教養教育・学生支援機構 教授)
(以下、五十音順)
宇田川 拓雄 (北海道教育大学名誉教授、嘉悦大学 経営経済研究所 客員教授)
江本 理恵 (北海道大学 高等教育推進機構 准教授)
大場 淳 (広島大学 高等教育研究開発センター 准教授)
木村 拓也 (九州大学 大学院人間環境学研究院 教授)
斉藤 準 (帯広畜産大学 畜産学部 講師)
笹尾 真実子 (東北大学名誉教授、同志社大学 研究開発推進機構 嘱託研究員)
杉谷 祐美子 (青山学院大学 教育人間科学部 教授)
杉本 和弘 (東北大学 高度教養教育・学生支援機構 教授)
高橋 哲也 (公立大学法人大阪 理事、大阪公立大学 副学長)
田中 秀明 (明治大学 ガバナンス研究科 専任教授)
塚原 修一 (関西国際大学 教育学部 客員教授)
福留 東土 (東京大学 大学院教育学研究科 教授)
松葉 龍一 (東京工科大学 先進教育支援センター 教授)
安田 淳一郎 (山形大学 学士課程基盤教育機構 准教授)
吉永 契一郎 (金沢大学 国際基幹教育院 教授)
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